(2号)イスラエル・カザ紛争

 

イスラエルは去る8月21日、ハマスにより拉致された6名の人質死体を収容したと発表した。 これら人質はガザ南部のラファフ市にあるトンネルの中で発見され、発見される少し前にハマスによって銃殺されたとのこと。この6名の中に、アメリカ人若い女性1名が頭部を銃弾で打ち抜かれ、殺害された。米国政府は態度を硬化させていることが米紙報道から読み取れる。今後の進展はどのように進むのであろうか。

 

これまでの経緯は以下の通りである。

昨年、(2023年10月7日)ガザに拠点を持つハマスの戦闘部隊が突然イスラエルの南部に侵攻し、近辺住民や近くで開かれていた音楽会の聴衆者も合わせ、合計約1200人を殺害し、約251人の人質を拉致した。西側の報道では、この襲撃の際、ハマス兵は、婦女子を強姦したり、子どもの前でその母親を殺したり、残虐の限りを尽くしたと報道されている。

イスラエルはすぐ反撃を開始、その至上目的を、人質の解放と今回の襲撃を指示したハマス幹部の抹殺とした。その結果、現在、イスラエルはガザの中心地であるガザ市を占拠しハマスを南部のラファフ市まで押し込んだ。

人質に関しては、昨年11月、105人が開放され、その後イスラエルは独力で4名の人質を救出したが、今回無残にも6名が殺害され、今も100名を超える人質が残されているとのこと。 今、アメリカ、エジプト、カタールが仲介し、休戦と残る人質の解放に向け、両国に働きかけている。

他方、ハマス幹部の抹殺は、遅々として進んでいない。パレスチナ軍は、パレスチナ民衆の後に隠れているためイスラエルハマス幹部を襲撃しようとすると、必然的にパレスチナ人民をも殺害することになる。従って、徹底した爆撃はできない。実際、イスラエルの爆撃で多数の民衆が殺害された。ハマスの報道によると、パレスチナ人民の死者は3万5千人を超えると発表している。それに加え、生き残ったガザ住民は住む家は破壊され、医薬品は枯渇し、食料不足で栄養失調者が続出し、その生活は困窮を極めている。このような民衆に及ぶ惨事は今回の襲撃事件前から容易に予想されることであり、ハマスは襲撃前から、意図的に、そのような事態を利用する戦略を練っていたと多くの人が指摘している。

そのような事情はともかく、アメリカを含む国際世論は人道的見地から、一日も早い両者間の休戦を要求している。このような環境下、米国が主導して、中東では比較的中立的立場にある、エジプトとカタールを加え、休戦に向けた共同調停案が作成した。その骨子は、即時休戦、人質交換による人質解放、段階的なイスラエル軍のガザからの撤退とのこと。8月16日カタールの首都ドーハでイスラエルも交え3国が会談し、共同提案を提出した。ワシントン・ポスト紙によると、この3か国提案に対し、イスラエルは、エジプトとガザの間にある回廊( Philadephi Corridor )におけるイスラエル部隊の駐在を条件とすることを主張、その理由はその回廊を通じてハマスは兵器や軍事品を搬入し、再びイスラエルを攻撃してくる危険があるとのこと。ハマスはこの条件に反対し、合意には至っていない。先月ハマスが行った人質6名の殺害はこの休戦協定協議中の最中に発生した事件であり、同協定に冷水を浴びせることになった。一方、イスラエル国でも、人質解放を最優先させるべきと、民衆が立ち上がり、大規模ストライキが発生し、ネタニヤフ政権を揺るがせている。しかし、ネタニヤフ首相は、この民衆のストライキにもかかわらず、前記条件を譲らないと主張していて、今後の帰趨は全く予断を許さない。

9月1日付、ワシントン・ポストによると、米国はエジプト・カタールと最終案(take it, or leave it)を協議し、若しこの最終案が受け入れられなければ、米国政府は仲介交渉から手を引きとも報じられている。但し、一方で米国は仲介を続けるべきとの国民意見も根強くある。

 

なを、以下のことを付記する。2006年以降ハマスのトップリーダーとなった、ハニーヤ氏(Haniyeh)は、2023年11月、パレスチナイスラエル2国共存案を協議する用意があると表明をしたが、2024年1月ハマス前代表のマシャ―ル氏(Mashal)は西側の提案はパレスチナの正当な領域の21%に過ぎない、我々の主張は海岸から川岸(from Sea to River)までと述べた。本年8月1日、ハマスの発表によると、ハマス代表ハニーヤ氏は、投宿したテヘランのホテルで暗殺された。同氏は2024年7月末イランの新大統領ベゼシュキャン氏の就任祝賀会に出席のため同国を訪問していた時の出来ごとである。イランによると、殺害の犯人はイスラエルだと発表しているが、イスラエル側はこれを否定している。

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(注1)両国対立の発端は、第2次世界大戦終了後、世界に分散していた多くのユダヤ人がパレスチナの居住地域に移民してきて、1948年5月、イスラエル国を建設した時に遡る。約2000年前その地を追われ、世界中をさまよい続けたユダヤ人の、建国への悲願の強さは、他国人には、到底測りしえない熱烈さであっただろう。

これに反発したアラブ人の敵愾心は凄まじく、1948年から1973年にかけ4度にわたる中東戦争が勃発し、武力に勝るイスラエルはこれらすべの戦争で勝利した。

(注2)しかしこの間、全く和平への試みが無かったわけではない。ノールウエイの仲介で成立したオスロ合意(Ⅰ)は1993年ワシントンで調印された。米国クリントン大統領も出席の下、調印者は、イスラエルの代表、穏健派と呼ばれたラビン首相、パレスチナの代表、アラファトPLO議長であった。その内容はPLOによる5年間の暫定政権承認であり、その5年間で棚上げされた諸問題(エレサレム問題を含む)を解決し5年後には最終合意に至る計画であった。

この暫定合意の大まかな内容は、(英文WIKIPEDIAによる)

しかし、棚上げ問題は解決しないまま、5年が過ぎ、オスロ合意も自然消滅した。

その後、イスラエルは西岸地帯のパレスチナ住民居留地に、ユダヤ人の移民を奨励し、ユダヤ人の居留地を広げ、結果、パレスチナ人を圧迫する行為となり、パレスチナ側の怒りと憎悪を増幅させた。

(注3) ハマスイスラム抵抗運動の略語)について 英文WIKIPEDIA他から抜粋

パレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム組織であるが、パレスチナ人民の正当な代表組織は、PLOパレスチナ解放機構)である。2006年パレスチナ自治区の国会にあたる自治評議会の選挙で、腐敗のない政府の確立を約束し、更にイスラエルの占領からパレスチナを開放すると主張し、民衆の支持を得て、同政府内での第1党となり、2007年PLOの主流派であったフアタ(Fatah)派との力による抗争に勝利し、ハマスは、ガザを支配し、ガザ半島を閉鎖した。一方、パレスチナの中央政権から分離した。

ハマスの組織は軍事部門と福祉部門や政治部門で構成されているとのこと。

ハマスがこれだけ軍事力をつけ抵抗力があるのは、同じ宗派であるシーア派イラン及びその傀儡勢力と言われるレバノンに根城を持つヒズボラの支援によるところが大きい。ハマスはガザ主要都市にトンネルを掘って、ガザを要塞化しており、イスラエル襲撃にはこのトンネルを利用している。ハマスの本部はカタールに拠点を置き、活動している。ハマスイスラエルを国家としては認めていなが、事実上存在することは認めると主張している。

(注:米国や多くのヨーロッパ諸国はハマスをテロ組織と認定している)

 

(閑話) 1969年、商社マンであった私は、2-3日の滞在でイスラエルを訪問し、首都テレアビブのホテルに投宿した。買い物に出ると百貨店の店員は中年女性がきびきびと対応され、若い女性はとみると、軍服に身を固め街中を靴音高く闊歩していた。人口の少ないイスラエルでは女性にも兵役の義務が課せられていたのです。翌日海岸沿いにあるテレアビブ市から、反対の国境近くにある聖地エレサレムにタクシーで行った。途中の道路はところどころ舗装がはがれ、かなりの難路であったが、所要時間は僅か1時間30分位、国土の狭さを実感した。又、この国に満ち満ちている自国防衛への緊張感は偶然の訪問者にもひしひしと肌身で感じた記憶がある。

 

  • この紛争の根源には、宗教的対立があるという人、結局領土問題だという人もいるが、恐らくその両方であろう。この悲惨な現状から人間の本質の一部が見える。それは、自分が生存するたに必要な領土を確保したいという、人間が持つ極限までの執着心と、憎悪にかられた人間が、信じられない冷酷な行動に出るときの「おぞましさ」である。

両国が平和に併存できる日はいつやってくるのか、誰にもわからない。「歴史」のみが、それを証言してくれるであろう。

(くいちろう)